ご紹介にあずかりましたトトロこと長尾峻です。
暇が出来たら何をするのかと聞かれたときにぱっとこれっていうのが出てこないんですよね。
こんな自分は趣味を語るよりもっと興味をもってもらえるブログがあると思うので、大きくテイストを変えて、僕の人生振りかえりをしていこうと思います。
文章もへたくそで恥ずかしい内容になってるかもしれないのですが、自分と向き合って書いてみるので読んでもらえると幸いです。
光風台幼稚園時代
鼻水垂らしながら何も考えずに毎日幼稚園へ通った。ほんわかした友だちと全くストレスの感じない大好きな時間を過ごした。嫌な思い出は年長のときくらいの帰り道に蜂に頭を刺されて痛かったくらいだ。
光風台小学校時代
低学年の頃は幼稚園時代とさほど変わらず何も考えずに学校に通っていた。小学校2年くらいの時には休み時間何をしよっかなあと考えていたら休み時間が終わったという話をお母さんにしたら学校生活を楽しめているのかと心配されたこともあった。
小学校高学年になり少年野球チームが生活の中心になった。お兄ちゃんがやっていた少年野球を小学校1年から始めたが4年生になったくらいから真剣にやるようになった。毎週末の朝8時半から夕方5時ごろまでの練習を真面目に取り組んだ。チームの中で誰よりも声を出したし、監督の言うことを聞いてベースランニングはみんなよりも一歩遠くまでダッシュした。この頃から自主的に考えて行動するのは得意じゃなかったが、誰かが言ったことはなんの疑いも持たず取り組んだ。
学校生活ではいじられ役兼盛り上げ役でクラスの中心にいた。自分の周りでは笑顔が溢れてた気がする。印象深い出来事は、着席が遅かった班が片付けをするというルールを作ったにも関わらず、先生が生徒に忖度しそのルールを守らなかったことに違和感を感じ怒ったことだ。当時は自分が正しいと思ったことを曲げれなかったし、曲げずに貫き通すことができた。他にも、陰で悪口を言っている友達がそのことを脇に置いて他人の悪口を晒した時には許せず怒ったこともあった。
真面目に取り組むときと楽しく遊ぶときのメリハリがあると友達や先生に言ってもらったことを嬉しく思った記憶がある。
吉川中学校時代
なんとなく中学でも野球を続けた。特別頑張れたわけでもなかったが、元気に声を出す姿でチームを引っ張る主将になった。中学校の部活の主将は何か大きな決定をしたりすることはあまりなかったが、部員の見本になれるようにしたつもりだ。
中学2年ごろから地元の塾に通いだした。授業の直前に宿題の答えを写している友だちを見て、せっかくお金も時間も使ってるのにもったいないなあと思ったことが印象的に覚えている。中学の夏ごろから当時の自分では少し上のレベルの高校を目指し勉強し始めたが、周りの友達と違ってあまり苦痛に感じなかった。受験の合格体験は時間をかけたものが成果として出るかどうかがはっきりする初めての経験でとても緊張したが、良い結果が出てとても嬉しかった。応援してくれた塾の先生にも半泣きで報告した。
この頃もクラスの中心にはいた記憶があるが、今振り返ると自分の性格と似たような人ばかりと絡んで、新たな刺激というより居心地の良さを優先していたような気がする。
豊中高校時代
高校デビューを目指したが、結局これまでやってきた野球をなんとなく続け、坊主生活が始まり貴重な3年間を野球部と勉強に費やすことになる。
これまでずっと幼馴染みとばかり過ごしてきたが、新しい友だちばかりの環境になってはじめて自分が人見知りであることに気づいた。この頃からクラスでの立ち位置が大きく変わる。誰かの注目を集める位置ではなく、ひたすらに居心地が良くストレスの少ない環境と人の中に自分を置こうとしていたのかもしれない。人の目ばかり気にして、自分のやりたいことよりも他人にどう見られるかが、自分の行動を決定する大きな要素になってしまったのもこの頃くらいからのような気がする。自分は誰とも当たり障りなく関わることが出来たが、長く続く友だちとして関われたのは野球部の仲間くらいだ。
野球部での活動は惰性で続けてきた野球に真摯に取り組めていたかといえば到底そうは言えない。その結果、当然チームの中での序列は下の方になっていった。先輩のバッティングピッチャーで全然ストライクが入らず怒られたことをきっかけにイップス気味になりキャッチボールもまともに投げられず、練習に行きたくなかったこともあった。2年の秋、自分は最高学年であったが下級生に負けベンチを外れた。この大会でチームが大阪ベスト16までいき、嬉しさと悔しさの入り混じった言葉にできないような気持ちになった。このままでは自分の高校野球生活に意義を見出せないと感じ、再び真剣に取り組み始めるようになった。自分から上手い人にどうしたら打てるようになるのか、ミスをする原因になるのか積極的に聞いて改善しようとした。春ごろから成果が出だし、ポジションの中では1,2を争う打率を残せるようになってきたが、そう簡単に監督の印象と信頼を変えることはできなかった。夏に近づくにつれ、さらにパフォーマンスが上がってきたが最後の夏の大会1ヶ月前、ベンチ入りメンバーを決める直前に左膝を怪我した。病院に行くまでの時間に監督に「最近調子良かったのになあ」と言われて勝手に涙がこぼれ落ちてきた。悔しかったがチームにできることを考え、不器用なりにチームの側で無理やり声を出した。本当かは分からないが、主将が監督に長尾はベンチに入れてくださいと言ってくれていたという話を後に聞いた。自分のことをよく見てくれている人がいると知って嬉しかった。
ベンチ入りを決める前最後の試合でギリギリ試合に出られるくらいまで怪我が回復し、「最後かもしれないから」とお母さんを練習試合に呼んだ。久しぶりの代打の打席、高めに浮いた変化球を軽く芯で合わせるとショートの頭を超えた。膝が痛くてスライディングができないから2塁ベースにヘッドスライディングで滑り込んだ。ベンチを見ると友だちが飛び跳ねて喜んでくれている。自分にたくさんアドバイスをくれた仲間だ。嬉しかった。結局この後、調子は上がらず公式戦は代走のみの出場だったがとても良い経験になった。ここで感じたのは、怪我への後悔以上にもっと早く野球に真摯に取り組んでいればもっといい位置で戦えたのではという後悔があった。自分に弱く、何か痛い経験をしないと中々強くなれない、そう感じた。
夏以降に真剣に勉強を始め、高校野球生活で得た教訓を元に、1日1日を無駄にしないように何を成長できたかを毎晩考えるようにした。半年で出来ることはやって、自分のパフォーマンスも出せたが、自分にとっては時間が足りず力不足の結果になった。
浪人時代
高校時代からやり方は間違ってなかったと考えていたため、引き続き馬鹿みたいに勉強した。このときの原動力は結果が出ないことへの恐怖心と成長の実感だった。
ここで加速度的にコミュニケーション能力が低下していく。仲のいい高校の浪人友だち以外との喋り方を忘れ始めていく。元々そうだったがここで顕著になった、または浪人を言い訳にしたいだけかもしれない。
ここまでの人生を振り返ると、今の自分が高校野球生活時代の自分と少し重なる。このままでは後悔してしまうかもしれない。自分が大事にしてきたことを思い出し、自分が好きな自分であれるように頑張ってみようと思う。
以上で僕のブログを終わります。なんでこんなこと書いてるんだろうと思うことも多々あったのですが、僕のことを知れるブログにはなったかなと思います。
拙い文章でしたがここまで読んでくれた方々ありがとうございます。
次は32期に移りなんずです。なんずは小中高で印象に残ってる出来事何かありますか?